【藤代三郎・馬券の休息(95)】舟橋聖一『躍動』を読む~「埋もれた競馬小説叢書」の発行期待

2019.7.17 12:02

 舟橋聖一『躍動』は、雑誌「優駿」の昭和17年8月号から翌年8月号まで連載された小説である。日本の競馬小説の最初の小説、と断言はできないが、黎明期に書かれた作品であることは間違いがない。

「舟橋聖一の愛馬命名と女たち」で、第11回の「ギャロップエッセー大賞」を受賞した国際日本文化研究センターの石川肇は、昭和5年に「新青年」に連載された大庭武年「競馬会前夜」が日本初の競馬ミステリーであると書いているので、あるいはこれが「日本最初の競馬小説」なのかもしれない。「競馬会前夜」は、当時のモダン都市・大連を舞台に、「競馬を題材にした探偵小説」だというのだが、おお、読んでみたい。

 それはともかく、舟橋聖一は昭和の流行作家で、馬主でもあった。愛馬モモタロウが中山大障碍を大差で勝ったのは昭和28年で、「優駿」に寄せた観戦記で「女房は,馬が障碍を飛ぶ毎に落涙し、勝つと決まると、更に泣いた」と書いている。

 舟橋が競馬に親しんだのは、吉川英治と同様に、もちろん菊池寛の影響である。スターロッチが勝った昭和35年の有馬記念には、愛馬ヒカルゲンジが出走したというから(10着)、熱心な競馬ファンであった。

 では、『躍動』はどういう小説か。昭和21年11月に刊行された非凡閣版を入手したので、これを読んでいこう。主人公は、藤林孝二。商事会社の社長である父親が、馬の生産と調教を行う牧場を経営していて(今で言うオーナーブリーダーだ)、健康を害した孝二がその牧場で静養しているというところから幕が開く。

 ストーリーを詳しく紹介しても仕方がないので、大雑把にいく。牧場長の杉崎の妹である道子、母方の遠縁であるたつ子、この二人の若い女性が、孝二の近くにいて、恋のさや当てを演じること。死んだ母親に変わって幾子さんが孝二の面倒を見てくれている。継母の生んだ弟明三が不良になって波乱を起こすこと(この青年はなかなか改心せずに周囲の人間をふりまわす)。

 競馬に関してはまだスタートがバリヤーであること、根岸の開催が終わって府中に変わるという記述が出てくるので、根岸と府中は同時代に併存していたこと。そして藤林牧場期待のヤクドウという馬が、昭和10年の東京優駿競走に優勝するまでを描いている。

 ちなみに昭和10年(第4回)のダービーを勝ったのはガヴァナーという馬だから、ヤクドウはもちろん架空の馬である。

 そのヤクドウの勝ち時計は、2400メートルで2分36秒2。実際のガヴァナーの勝ち時計は、2分42秒1。これは当日が不良馬場で行われたためである。

 なお、舟橋聖一には、昭和22年9月から翌年12月まで優駿に連載された「遠い花」という競馬小説が他にもあるが、私は未見。別冊小説新潮の昭和33年4月号に掲載した「女は幻し」という競馬を題材にした短編を読んだのみである。この短編は戦前の新潟競馬を描いた珍品で、今となっては大変珍しいことが幾つも出てくる。

 当時の馬券は単複のみで、しかも20円単位なのだが、新潟のみ10円であったとか、1枚しか買えないのに2枚買いをしたためにその場で警察に連行されるとか、そういう当時の風俗が興味深い。

 この短編「女は幻し」を始めとして小説誌に発表したものの、その後、単行本になっていない競馬小説はたくさんあるものと思われる。いや、調べもせずにいま書いてしまったが、この「女は幻し」、舟橋聖一の短編集に入っているのかもしれない。どのみち、いま読めないことに変わりはないが。

 数年前に、古い小説雑誌を読んでいるときにたまたま偶然にその「女は幻し」と遭遇したのだが、いま読んでも面白かった。そのときに思ったことだが、だったら、そういう競馬小説を集めた叢書が出てこないものか。そうすれば、舟橋聖一「遠い花」もそこに収録してもらえれば、読むことが可能になる。

 「埋もれた競馬小説叢書」全10巻--という企画を夢想するのである。

藤代三郎(ふじしろ・さぶろう)

 1946年生まれ。本名・目黒考二(めぐろ・こうじ)。明治大学文学部卒業後、76年に作家・椎名誠氏と書評誌「本の雑誌」創刊。ミステリーと野球とギャンブルをこよなく愛す。藤代三郎のほかにも群一郎、北上次郎など複数のペンネームを持ち、評論、執筆活動を幅広く展開。著書に「本の雑誌風雲録」「活字三昧」(いずれも目黒考二)や「冒険小説論」(北上次郎)。「戒厳令下のチンチロリン」や週刊ギャロップに創刊より連載している「馬券の真実」をまとめた「外れ馬券は人生である」などの“外れ馬券シリーズ”は藤代三郎として発行している。

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