【名馬は一日にして成らず】夢に架ける橋(34)

2015.6.15 12:49更新

 橋口弘次郎厩舎所属の新人騎手としてデビューした平成8年、高橋亮は20勝(JRAのみ。以下同)を記録した。初勝利(3月24日・中京8レース)を飾った翌週の、調教中に落馬、骨折したため、4カ月近い戦線離脱を余儀なくされたアクシデントを乗り越えての20勝である。53勝を記録して新人賞に輝いた福永祐一や、同期の重賞一番乗り(ステイヤーズS・サージュウェルズ)を果たした和田竜二の陰に隠れた格好ではあったが、まずは順調な滑り出しといえた。

 橋口はもともと、騎手に細かい注文はつけないタイプのトレーナーだが、それは“初めての弟子”に対しても同じだった。「おおらかな先生ですし、乗り方などの技術面については(競馬学校在籍時の)厩舎実習のころから、あまりこまごまとしたことはいわれませんでした。かわりによく、『慌てるなよ』とおっしゃっていたことを覚えています」とは高橋の回想。一方の橋口は「オレは誉めて伸ばす主義なんだ」と笑う。

 ただし橋口は内心でこんなことを考えていた。

 「亮と一緒にGIを勝ちたいとかより、とにかく、ひとつでも多く勝ってほしいと思っていました。数を勝てば自然によその厩舎からの依頼も増えるでしょう? 順調に勝ち星を重ねて、騎乗数も増えてという形になってほしいと願う気持ちが強かったですね」

 当然、自分にできるバックアップはしっかりとするつもりだった。デビューの初年度、高橋が記録した騎乗回数(282回)のうち、およそ4分の1は自厩舎の馬が占める。同年の橋口厩舎の出走回数は241回(障害競走の14回を含む)だから、3月のデビュー以降は“3分の1”ぐらいの頻度で高橋を乗せた計算。初めての弟子を積極的に起用し続けたことが数字にも表れている。

 そんなバックアップを受けつつ、翌年以降も高橋は着々と騎手としての実績を積み上げていった。31勝を挙げた2年目には中京開催の年間リーディング(12勝)に輝き、中京競馬記者クラブ賞を受賞。自厩舎のツルマルガイセンで重賞初制覇(中日新聞杯)を果たした3年目には、同期の福永(52勝)や和田(31勝)を上回る60勝をマーク、関西リーディングの6位に躍進し、減量もとれた。先の中日新聞杯を含め、重賞を通算4勝したこの年にはもう、橋口も完全に厩舎の主戦として登用するようになっていた。

 ところが4年目の夏の終わり。彼の騎手人生に大きな影を落とすアクシデントが起きる。

 福永が桜花賞(プリモディーネ)を勝ち、和田が皐月賞(テイエムオペラオー)を制したこの平成11年。高橋もキャリアハイの勢いで勝ち星を伸ばし、8月終了時点で46勝を記録していた。特に夏の小倉開催では好調で最終週の土曜日(9月5日)には3勝の固め打ち。夏開催の勝ち星を17勝とし、首位を走る飯田祐史(18勝)に肉薄して最終日を迎える。

 しかし逆転リーディングをかけて臨んだ9月6日の第4レース。断然の1番人気馬ビッグブライアンに騎乗した高橋は2コーナーで前の馬と接触して落馬、ただちに病院へ搬送されて緊急の開頭手術を受けるほどの大けがを負ってしまう。

 不幸中の幸いにして命に別状はなく、術後の経過も良好で年内には戦列に戻ることができた。復帰した12月には7勝と、まずまずのペースで勝ち星を加算。自厩舎のダイタクリーヴァに騎乗した北九州3歳Sの勝利がそのなかには含まれる。

 翌平成12年も彼らは1月のシンザン記念、3月のフジテレビ賞スプリングSを連勝。しかし年が明けてからの高橋はもうひとつ波に乗れず、落馬前に比べると勝ち星のペースが明らかに落ちていた。何かのきっかけをつかめれば流れがまた変わったのかもしれず、その意味からもダイタクリーヴァとのコンビは、再度の上昇気流に乗るための格好のチャンスといえたが、1番人気に支持された皐月賞ではエアシャカールの強襲に屈してクビ差の2着に惜敗。続くダービーでは距離の壁にはね返されて12着、マイル路線に矛先を転じた秋のマイルCSでは、当日の2つ前のレースで落馬して騎手変更(安藤勝己が騎乗して2着)と、チャンスはことごとく、彼の眼前をすり抜けていった。

 この年、高橋の勝利数は32勝にとどまった。一方の橋口は師匠の立場と馬主との間で板ばさみになり、苦悩する局面が増えた。勝ち星が伸びなくなったとはいえ、一生懸命に頑張ってくれている弟子には可能な限り、チャンスを与えてやりたい。しかし調教師として、“勝てるジョッキーを乗せてほしい”という馬主の意向を無視するわけにはいかない。

 「どんどん勝ってくれた時期もあったわけだし、騎手としていいものは持っていたんです。だけど、小倉の落馬事故が……。あの事故が亮の運命を変えてしまった印象ですね」と橋口は振り返る。「無関係とまではいいませんが、あの事故が(その後の騎乗に)影響を及ぼしたという意識は、僕自身にはないんです」と高橋はいう。どちらが正しいのかは分からない。ただいずれにしても、若葉マークがとれてさらなるステップアップに挑もうとした時期に、彼が飛躍の波に乗り損ねたことは確かだった。

 平成13年の勝ち星は33勝。一定の数字は残しながらも、ある種の壁に突き当たった格好の高橋は平成14年の春、橋口のもとを離れる決意を固める。“仕方ないな”というのが当時の心境だったそうだ。

 「仕方ないというと他人事ごとみたいですが、トップの厩舎にはやっぱり、トップの騎乗が求められるわけです。そのなかで(馬主から)かばって僕を乗せてくれていたことは分かっていましたから。これ以上、先生に迷惑はかけられないと思いました」

 橋口は引き止めなかった。自分にできるバックアップはしてきたという自負心を彼は持っていたし、何よりも結果を求められる世界である。“仕方ない”という心情は橋口にも共通していたかもしれない。

 こうして高橋は平成14年4月1日付で厩舎を離れ、フリーの騎手になった。とはいえもちろん、2人が絶縁関係に陥ったわけではない。その後、現在に至るまで、彼らは師弟の絆で結ばれ続けている。(続く)=文中敬称略