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2018.9.12 12:00

【藤代三郎・馬券の休息(52)】根岸で落馬した男・その2 一番の呼び物だった「障害戦」

旧根岸競馬場

旧根岸競馬場【拡大】

 早坂昇治『文明開化うま物語』の中に、一八六二年五月一日の競馬番組が載っている。これは同年四月二六日付けのジャパン・ヘラルドに掲載されていたという。

 その番組表を見ると、五月一日には五つの競走が行われているが、そのうちの第四競走が「障害戦」である。五月二日には七つの競走が行われていて、そのうちの第三競走が「障害戦」だ。

 一八六二年ということは、まだ根岸競馬場が出来る前のことであるから、円形馬場で行われたものだが、根岸に移ってからも障害戦は行われたと早坂昇治は前記の書に記している。『日本競馬史』(日本中央競馬会編)第四巻には、一九二四(大正一三)年まで、根岸競馬場で障害戦は行われなかったと書いてあるが、それは「巻末の年表とともに訂正されるべきである」とまで記している。

 さらに、イギリス第二〇連隊の練兵場で行われた「駐屯軍競馬」(円形馬場が手狭になったものの、まだ根岸競馬場が出来る前であったので、こういうところでやったことがあるようだ)の番組には、第八競走として障害戦がある。

 もっと決定的なのは、一八六五年四月、本牧の一角の谷を利用して九〇一六坪の射撃場を幕府が作り、その年の一二月の競馬は練兵場ではなく、この新しい射撃場で行われたようだが(この射撃場があった場所は、現在の中区大和町の商店街からJR山手駅にいたる付近)、それまでの障害戦とは異なる障害戦が行われた、と早坂昇治は書いている。競馬場内で行われる普通の障害戦を「ハードル・レース」と言うのに対し、野外で行う障害戦は「スティープルチェース」と呼ぶらしい。ハードル・レースに比べ、そのスティープルチェースは距離も長く、障害も多いので、馬術の耐久レースに似ている。

 ブレックマンが落ちたのが本当に一八六〇年ならば、いやたとえ一八六一年であっても、根岸競馬場はまだ出来ていないから、「根岸で落馬した男」という今回の見出しは間違いになってしまうのだが、「居留地競馬で落ちた男」という見出しではインパクトが弱いので許されたい。それに、居留地競馬の障害戦に出場していた男なら、根岸競馬場が完成したらそちらの障害戦にも絶対に出ていたはずだ。それは容易に想像できる。

 問題は「当日の一番の呼び物である障害物競走」という意味が、なぜ一番だったのかという理由が、さまざまな資料を繙いても判明しなかったことだ。それに近い記述が、L・ド・ボーヴォワール『ジャポン1867年』(綾部友次郎訳/有隣新書)の中にあったので、最後にその記述を引いておきたい。

 これはフランスの青年貴族ボーヴォワールが世界一周の旅の途中に日本に寄ったときの記録である(青年貴族なので海軍軍人が随行するという大名旅行。ブレックマンの世界放浪とはかなり異なる)。

 この書の中に、次のような記述がある。

「横浜は沼地で平らな場所の中にあるが、この平坦地を植物の見事に生い茂った丘が緑の帯のように取り巻いている。大君は平行する二つの丘の丸みを帯びた尾根を巨大な盛土でつなぎ、世界中で最も画趣に富むトラックのひとつをつくったのである」

 その地形から一八六五年に幕府が作った射撃場のようにも思われるが、一八六七年五月八日という記述が正しいのなら、根岸競馬場のことになる。根岸もこんなに起伏に富んでいたのか。それはともかく、そのコースで行われた障害戦の模様をボーヴォワールは次のように描いている。

「それでもお百姓さんたちは、障害物競馬の際に、騎士たちの赤、白あるいは黄の絹のジャケットが水田の深い泥の中に転がり落ちるのを、その家の戸口で見て溜飲を下げるのである。この障害物競馬は本当に面白かった。測量竿を追いながら耕作地を横切って馬をとばせたのだが、茶畑、水田、麦畑、花咲く梨畑といずれ構わず、向こう見ずな騎兵隊は横断するのであった。町や周辺の日本人は、群れをなした駆けつけ、一番高い場所を全部占拠して、われわれの紳士諸君がまとまって川の中へ真っ逆さまに落ちるのを見て、彼らは腹の底から笑った。お祭り騒ぎは丸二日、午後の一時から六時まで続いた」

 臨場感あふれる場面で、「当日の一番の呼び物」という形容にも頷けるのである。異国から来た大きな男たちが、いつも街中を闊歩している男たちが、次々と水田の深い泥の中に転がり落ちるのだから、こんなに痛快な見世物はなかっただろう。

 そして、見てたわけでもないのに断言するが、たぶん落ちた男たちも、にこにこと笑っていたのではないか。落ちる方も、喝采を浴びせる方も、どちらも笑っていたような気がするのだ。そういう楽しさが、ボーヴォワールのこの文章から伝わってくる。(年号表記は「出典」による)

藤代三郎(ふじしろ・さぶろう)

 1946年生まれ。本名・目黒考二(めぐろ・こうじ)。明治大学文学部卒業後、76年に作家・椎名誠氏と書評誌「本の雑誌」創刊。ミステリーと野球とギャンブルをこよなく愛す。藤代三郎のほかにも群一郎、北上次郎など複数のペンネームを持ち、評論、執筆活動を幅広く展開。著書に「本の雑誌風雲録」「活字三昧」(いずれも目黒考二)や「冒険小説論」(北上次郎)。「戒厳令下のチンチロリン」や週刊ギャロップに創刊より連載している「馬券の真実」をまとめた「外れ馬券は人生である」などの“外れ馬券シリーズ”は藤代三郎として発行している。