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2018.9.5 12:05

【藤代三郎・馬券の休息(51)】根岸で落馬した男・その1 一八六〇年代に障害物競走があった?!

旧根岸競馬場

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 小山騰『ロンドン日本人村を作った男』(藤原書店2015年8月刊)という本がある。「謎の興行師タナカー・ブヒクロサン1839~94」という副題が付いた本だ。

 ロンドン日本人村、というのがあったのである。日本風俗博覧会、といえばいいか。日本の熟練した工芸家や職人が、鮮やかな衣装をつけ、日本の風俗や習慣を披露するというものだ。茶店では午後5時にお茶のサービスもあった。その「ロンドン日本人村」の入場者数は1885年1月の開場から4月の終わりまでに25万人に達したという。入場料1シリング(現在の邦貨で6300円)だから安くはない。つまり、これは興行である。ロンドンの真ん中にこういうものを作った男がいたのだ。それを仕掛けたのが、タナカー・ブヒクロサン。この男はいったい何者なのかを追いかけたノンフィクションが『ロンドン日本人村を作った男』である。

 そのタナカー・ブヒクロサンという謎の興行師が、フレデリック・ブレックマンというオランダ人であることを、この本の著者である小山騰が初めて明らかにし、その波瀾に満ちた人生を色彩豊かに描いているから読み始めたらやめられない。幕末から明治にかけて、海を渡っていった日本人、あるいは日本にやってきた外国人の記録を読むのが好きな人(私がそうなんだが)には必読の書といっていい。

 フレデリック・ブレックマンは二〇歳のときに長崎に来航。その5年後には第2次遣欧使節団の通訳としてフランスに出かけ、その直後、英国公使館に勤務(そのときの公使はオールコック)。その後、フランス公使館員となり、問題を起こして(というか、巻き込まれて、いや、やっぱり起こしてなのか)、軽業見世物一座を率いてアメリカに渡っていく。そして、流れ流れて、ロンドンにたどりつくわけである。

 オランダに生まれた青年が、遠い異国の日本にやってくるというだけでも当時はすごい冒険である。明治の初期、日本にやってきた外国人の多くは、外交官や商人、あるいはお雇い外国人だ。つまり仕事という明確な目的を持っている。フレデリック・ブレックマンはそのどれでもないのだ。日本にきたときには日本語だけでなく、各国語を喋ることが出来たというから(そうでなければ通訳はできない)、行く先々で言葉を覚えてきたのだと思われる。日本語を覚えたのはジャワあたりか。

 それだけでも興味深いのに、その後、軽業見世物一座を率いてアメリカに渡り、果てはロンドン日本人村を作るとは、想像を絶している。関心を持たれた方はぜひ本書を読まれたい。

 ここでは、フレデリック・ブレックマンが横浜にいたときのことに焦点を絞ろう。『一八六〇年九月一日に横浜で開催された居留地競馬の「当日一番の呼び物である障害物競走」で、フレデリック・ブレックマンは馬から振り落とされた』という記述がこの本に書かれているのだ。

 これは、当時横浜に滞在したフランシス・ホールというアメリカの商人がつけていた日記に出てくる記述だというのだが、「一八六〇年九月一日に横浜で開催された居留地競馬」という箇所に、まず立ち止まる。

 というのは、『文明開化うま物語』『競馬異外史』などの著者早坂昇治は、居留地競馬の始まりを一八六一年であると、それらの書で書いているのだ。

 根岸で競馬が行われるようになったのは一八六七年からだが、その前、一八六二年に居留地に円形馬場が作られていた。

 ここまではいい。問題はその前で、弁天社裏に「幕府の役人が作った、距離もせいぜい二~三〇〇メートルの」直線馬場で、一八六一年に外国人が競馬をやった、と早坂昇治は書いている。坂内誠一も『碧い目の見た日本の馬』で、その「弁天社裏の松林を切り開いて造られた直線の馬場」が、一八六一年の春に出来たことを書いているから、一八六一年説が優勢だ。一八六〇年に居留地で競馬が行われた、と書いているのはフランシス・ホールだけである。

 そのどちらが正しいのか、判断する材料を私は持っていないので、そのように書かれている書物があることを紹介するにとどめる。あるいは、早坂昇治や坂内誠一が一八六一年説に立つのは、公的記録がその年度を記録しているからで、フランシス・ホールという民間人の日記だけでは一八六〇年説に立つことは出来ない、ということなのかもしれない。 問題は、もう一つ他にある。

『ロンドン日本人村を作った男』に出てくる記述に、「当日一番の呼び物である障害物競走」で、フレデリック・ブレックマンが馬から振り落とされた、とあることだ。

 なに? 障害物競走? 当時、すでに障害物競走があったのか?

藤代三郎(ふじしろ・さぶろう)

 1946年生まれ。本名・目黒考二(めぐろ・こうじ)。明治大学文学部卒業後、76年に作家・椎名誠氏と書評誌「本の雑誌」創刊。ミステリーと野球とギャンブルをこよなく愛す。藤代三郎のほかにも群一郎、北上次郎など複数のペンネームを持ち、評論、執筆活動を幅広く展開。著書に「本の雑誌風雲録」「活字三昧」(いずれも目黒考二)や「冒険小説論」(北上次郎)。「戒厳令下のチンチロリン」や週刊ギャロップに創刊より連載している「馬券の真実」をまとめた「外れ馬券は人生である」などの“外れ馬券シリーズ”は藤代三郎として発行している。